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初代校長 伊藤長七

大正の世が生んだ

​型破りの教育者

 「伊藤長七を知らずして、小石川を語るな」ーそんな言葉があるほど、小石川の教育の全ての源流は、伊藤長七先生に帰するのです。

 

 今後の教育界をいかにするするべきか、鋭い視点で論じた「現代教育観」が、東京朝日新聞で掲載されて反響を呼んだのが、1912年(明治45年)のことでした。伊藤長七先生が、その名を世間に知らしめた最初の出来事です。

 小石川(当時は府立五中といった)の初代校長に就任すると、誰もがやったことのないことを、次々と行い、世間を驚かせました。

 理化学教育の振興という、まったくもって斬新な学校方針は、「科學の道」を軸にした科学者の養成を目指すというものでした。当時の校舎には、日本一の理科実験教室が整備されました。気象観測は生徒の手により本格的な観測が行われ、関東大震災の発生時には、小石川の生徒の観測データが公式に使われるほどでした。「原理は後にして先ず事実」小石川の創立以来の考え方です。授業の半数以上を実験や実習に費やし、本物に触れることを何よりも大切にしています。

 リベラルな風を大正の教育界にもたらしたのもまた、伊藤長七先生でした。日本初の中学校の女性教師の誕生は、伊藤長七先生が、漢文の教師に女性教諭を採用したことが始まりです。今でこそ当たり前の「男女共に」という考えを、伊藤長七先生は、小石川で体現しました。また、日本で初めて、詰め襟ではない、背広とネクタイの制服を取り入れたのもまた、伊藤長七先生でした。小石川の現在の前期課程の制服は、伊藤長七先生の影響を強く受けたものなのです。

 「国際人たれ!」ーこれもまた、伊藤長七先生の口癖でした。なんといっても、アメリカ、ヨーロッパ、ブラジル、ソ連、中国台湾など、校長在職中に世界中の海外渡航を実現した伊藤長七先生だからこそ、説得力を持って熱弁できる言葉でした。日本の子どもたちに、国際交流の醍醐味を味わってもらおうと、日本中の少年少女から手紙を募り、それを世界中の子どもたちに配布し、大正の世にあって、子どもたち同士の国際交流を図ろうとしたのでした。

 日本初の文化祭である創作展の実現もまた、伊藤長七先生の発案によるものです。今でこそ日本中の中学、高等学校で開催される文化祭は、伊藤長七先生が、生徒たちの研究の成果を内外に発表する機会を作ろうとして設けたものでした。創作展や芸能祭といった、今の小石川で受け継がれる学校行事は、伊藤長七先生の理念を体現したものなのです。

​ 伊藤長七先生は、1930年(昭和5年)に逝去しました。しかし、伊藤長七先生の崇高な理想は、今なお、小石川に連綿と受け継がれています。

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― 東京都立小石川中等教育学校―

住所: 東京都文京区本駒込2丁目29−29

電話: 03-3946-7171

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